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私たちが益子焼に惹かれる理由。窯元・益子焼つかもとさんに訪問してきました

私たちが益子焼に惹かれる理由。窯元・益子焼つかもとさんに訪問してきました

こんにちは。クリーマ編集部の佐々木です。

 

東京からバスや車で3時間ほど。栃木県に位置する、東京から最も近い焼き物の街 ”益子”。ゴールデンウィーク中、爽やかな初夏の空の下、街は形も色も特徴もさまざまな益子焼のうつわで溢れかえっていました。

 

益子では毎年ゴールデンウィークと11月の年2回、「益子陶器市」が行われます。今年はなんと、第101回目。東京からはもちろん、全国各地から益子焼を求めてたくさんの人が集まってきます。

 

行きのバスで乗り合わせたご夫婦は、去年のゴールデンウィークも益子陶器市に来ていた様子。

「去年はぐい呑と片口と、いくつかお皿も買ったよね。今年は何を買おうか。」

「いい蕎麦猪口があったら買いたいな〜。ぐい呑はもうたくさんあるから今年は我慢!」

そんな会話が聞こえてきます。

益子焼つかもと 関さん撮影(過去の益子陶器市の様子)

陶器市を回っている人たちの中には、もう何年間も毎年、この陶器市に訪れているおばあちゃんもいました。家族の食卓を彩る食器を手に入れるため、真剣な眼差しで食器選びをするお母さんもちらほら。可愛い〜!そんな声をあげながら、友だち同士でおしゃべりして買い物を楽しむ女の子たちも。

 

江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことに始まるという益子焼。益子の陶土は良質であるものの粗く砂分が多く、精巧なうつわを作るには向かなかった、とも言われています。

 

そんな”益子焼”が現在も多くの人を惹きつける理由はなんなのでしょうか?

 

陶器市の活気が溢れる中、私はその魅力をさらに知るため、益子で最大の窯元であり、Creema出店作家でもある益子焼つかもとさんを訪れました。

「益子焼つかもと」

オリジナルの益子焼ブランドを始め、1957(昭和32)年から60年以上に渡り信越線横川駅の「峠の釜めし」の釜容器も作っている益子焼最大の窯元。台所用品の制作から始まり、現在はオリジナルの益子焼作品を制作。うつわや食器のみならず、キッチンツールや釜めしの釜をモデルにした1合土釜、インテリア小物まで展開。代々受け継がれてきたものづくりの良さを残しながらも時代に合ったものづくりをしている。
益子焼つかもとの敷地内ではお買い物のほか、ギャラリーや食事、工房の見学(※要予約)、登り窯の見学などが可能。

「益子焼らしさ」はどう出来上がった? 『焼き物・益子焼』確立までの道のり

今回、ご案内・お話していただいたのは「益子焼つかもと」の関 教寿さん。

関さんは職人としてものづくりの道を極めたのち、商品企画などをご担当、現在は営業として益子焼の魅力をよりたくさんの人に広める役割を担っていらっしゃるという、まさに益子焼のスペシャリストです。

「益子焼つかもと」では、オリジナルブランドとして展開中の作品や益子で制作活動を行うさまざまな作家の益子焼がお買い物できるだけでなく、つかもとさんの窯にゆかりのある巨匠たちの芸術を実際に見ることができる美術記念館があります。

 

もともと塚本家の母屋として使用されていた庄屋造りの建物の館内には、かつてその地で作品を制作したという20世紀の美術を代表する巨匠である板画家・棟方志功の作品、そして益子焼を語る上で欠かせない人物、陶芸家・浜田庄司の作品が展示されていました。

 

まずはいまの益子焼の背景となるストーリーから紐解いていきます。

当時益子で作られていた火鉢やかめ、釜などの台所道具。当時は瀬戸焼などが台所道具として全国的に親しまれてきたが、より東京に近い産地であることから益子でも台所道具が盛んに作られました。

− 益子焼つかもと 関さん(以下関さん)

「浜田庄司のすごいところは、もちろん彼が作った作品自体も素晴らしいのですが、自分だけが作れる作品を創作するのではなく、どんな職人でも同じように浜田庄司のような益子焼が作れるよう、デザインをし、仕組みを作り上げ、その後の益子焼の基礎を作ったことです。

 

多くの場合芸術家は、自分しか作れない一点物を作り上げようとします。でも浜田は違った。当時の益子では、かめやすり鉢、土釜、片口、土瓶など、関東一円の庶民が使う台所道具を作っていましたが、かのバーナード・リーチ※に影響を受けて渡英したのち、帰国後は創作活動の場として益子を選んだ浜田は、益子焼の中に民藝の美を見出し、それをより良い形で「益子焼らしさ」に昇華させて後世に繋げようとしました。それがちょうど柳宗悦が率いる民藝運動※の真っ最中です。」

※民藝運動

日本各地の庶民の暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動。1926年(大正15年)に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された。それまでは芸術家たちの美術品が主流だったが、生活の中にある庶民の日用品にこそ美があると語った。バーナード・リーチはイギリス人の陶芸家で、柳宗悦や浜田庄司に影響を与え、日本の民藝運動にも関わりが深い。

「益子焼の特徴といえば粗めの陶土に釉薬をかけたぽってりとした質感や色ですが、浜田は、もともと益子で使われていた伝統的な7色の釉薬・益子七釉を掛け合わせて、よりたくさんの色での表現を可能にしました。

 

そして絵付けに関しても、巧妙な絵付けにこだわるのではなく、どの職人がやっても益子焼らしさが出る技術を考案しました。浜田庄司の作品の象徴のひとつでもある技術が、釉薬をうつわに流し掛けるようにして模様をつける方法「流掛(ながしかけ)」です。技術的にはシンプルでかんたんな手法ですが、その力強い感じとそこに現れた線の動きの奥深さは人を惹きつけ、多くの益子の職人から好まれて使われました。

 

彼が登場した以降の益子焼は、その多くの点で浜田に影響を受けているんです。」

益子焼は多種多様。作家の個性がひしめき合う、「益子」という焼き物の街

関さん撮影

そんな中、つかもとさんの店内にある様々な作り手の益子焼を見ると、本当に見ていて飽きないほどの作風の豊富さ。作家の個性が直接反映されたうつわを見て回っていると、これが全て益子焼なのか!と驚いてしまいます。

 

このような自由に個性あふれる焼き物が生まれるのは、益子ならではなのでしょうか?

− 関さん

「そうですね。益子焼ってほかの焼き物の産地と比べると、まだ歴史が浅い焼き物なんです。益子焼の始まりは江戸時代末期。それこそ古くから日本で作られている備前焼なんて、平安時代からでしょう。

 

益子で焼き物が作られ始めたときも、すでに焼き物を作っている産地の作り方を参考にして、益子で手に入る材料を使ってその作り方ができないか、と試行錯誤しながら作ってきました。益子焼にはほかの産地から仕入れてきた手法や作風が活かされていることもあります。

 

そういった背景もあるので、伝統に固執することも少ないし、何かルールや決まりごとがあるわけでもない。この益子の土地では作家がのびのびと自由にそれぞれの益子焼を作っています。

 

伝統的に使われてきた益子ならではの釉薬や手法はありますが、「益子焼はこうでなければいけない」ということもない。個性がいくらでもあって、いろいろな作風があるのが”益子焼らしさ”かもしれませんね。」

伝統を受け継ぎながら時代に合った新しいものに挑戦する、益子焼つかもとさんのものづくり

▲ おぎのやの釜を作るつかもとさんならではの、益子焼の一合土釜「kamacco」。内蓋を利用して一合のお米や水の量が簡単に測れて、二重蓋をセットしコンロの最弱火で約20分で炊きあがります。

現在益子には400前後の窯があると言われています。その中で最大の窯元でもあるつかもとさん。Creemaで目にするつかもとさんのショップには、益子焼の伝統的な技法や釉薬を使っていながらも、現代の私たちも気軽に日常生活に取り入れられる種類の豊富さ、親みやすい形やシンプルなデザインが特徴の作品が並びます。

 

益子焼ならではのぽってりとした質感と、シンプルに彩豊かな釉薬を活用する作風に惹かれた私も、ファンの一人。

 

今回は特別に、つかもとさんの工房と、峠の釜めしの容器が作られる釜工場を見せていただきました。

 

最初にお見せいただいたのは、”釜工場”。現在峠の釜めしの容器は、機械によって製造環境が整備され、1日に1万個もの容器が生産され、釜めし用の容器として出荷されているそうです。

完成した容器と、釉薬がかけられる前のもの

一方で古くから使われてきた工房では、現在も職人が作業を行いながらつかもとさんの益子焼を作っています。

奥にある灯油で蝋(ロウ)を溶かし、その蝋で絵柄を描いている最中。

蝋で絵がかれた上から釉薬をかけると…!蝋の部分が釉薬を弾き、模様が抜き出ます。

蝋で描いたペルシャ模様の上に、柄杓を使用して、黒く発色する釉薬を一気に掛けるところ。蝋を使うことで、模様の部分だけ釉薬が弾かれます。(つかもとさんinstagramより)
乾燥中のうつわがずらり。手前の机では箸置きを形作るスペースが。
うつわを乾燥させる上階のスペース。職人が成形されたものを運び込みます。

150年の歴史のあるつかもと窯が作るからこそ、使う人が楽しめるものを。9色のカップ&ソーサーに込められた思い

つかもとさんのものづくりにはどんな思いがあるのでしょうか。作品の背景にあるエピソードを聞いているうちに、使い手目線・使い手起点でものづくりをするつかもとさんの考え方が見えてきました。

 

「益子焼らしさを楽しめる作品がある」、とご紹介してもらったのが9色で展開された「益子焼コーヒーカップ&ソーサー」。このシリーズには「くく」という名前が付けられています。

 

この9色の色展開には、益子焼ならではの由来があるそうです。

− 関さん

「茶色、ベージュ、白、黒、キャラメル、黄色、青のカップ&ソーサーは、益子焼で古くから使われてきた代表的な釉薬7色をそれぞれ使っています。

 

中でも特に益子らしいのは、やはり「益子青磁」で出来た青色でしょうか。もともと益子の土地にある材料では、ほかの産地で作っている青磁釉は作れなかったそうです。それで、益子にある材料を使ってなんとか青磁の青ができないか、ということでできたのが益子独自の「益子青磁」です。

 

益子青磁では、伝統釉であるお米の籾殻からできた糠白釉(ぬかじろゆう)に銅を加えて酸化させることで青色を生み出します。多くの青磁と違って、益子青磁の青は深みがあり、鉄らしい光沢感も感じられる、なんとも言えない青色です。

 

その7色に加えて、通常は添え役として使われることが多い皮鯨釉と呉須釉を使った、こげ茶とカーキ色の2色があります。皮鯨釉は通常、うつわの縁にアクセントを加えるかたちで使われることが多く、こうやってメインの色としては使われることがない釉薬です。呉須も染付に使われることが多い釉薬ですね。この2色が加わって、全9色です。」

益子青磁を使ったカップ。独特の光沢感があります。

「ふつう、カップ&ソーサーって上下がセットになっていると思うのですが、つかもとのカップ&ソーサーは同じ色だけで使うだけじゃないんです。例えばご夫婦で2セット買っていただいたら、同じ色同士だけじゃなくて、異なる色同士を組み合わせて使っていただくこともできます。2セットあれば気分で4種類の楽しみ方ができる。

 

9色全部そろったら、81通りも楽しめるんです。だから「くく(九九)」と名付けました。

関さん撮影

私たちのように職人が作るものは「作りたいものを作って終わり」になりがちですが、こんなふうにすると、使う方にも選ぶときから楽しんでいただけるし、使うときも毎回わくわくすると思うんです。

 

今後は同色のカップとソーサーをセットで販売するだけでなく、異なる色を組み合わせた形で販売することも検討しています。

 

益子焼の始まりは台所道具であり、庶民の人々が使うために作られていました。多分食器って、結婚したり自分で食事を作ったりするようになって、若いときには興味がなかったけれど、少し年齢を経て使い手になったことで興味が湧いてきた、ということが多いものだと思うんですよね。

 

以前、結婚したのをきっかけに、食器やテーブルウェアが欲しくなって探したところつかもとの商品に興味を持ってここまで来てくださった女性もいました。そうやって、使う人の生活が少しでも良くなるようなお手伝いができると、とても嬉しいです。」

益子焼の魅力とは? 私たちが益子焼に惹きつけられる理由

▲ 上の動画でも出てきた、益子の伝統的な技法の蝋抜きで描かれた中皿。一点一点釉薬がかけられたお皿は表情も豊かです。

「益子に来れば、お気に入りの食器と必ず出会える」

益子焼の魅力って何でしょうか? 最後にそんな質問をしたところ、関さんはこんな言葉を仰いました。

 

江戸時代から始まった益子焼は、さまざまな技法を取り込み、浜田庄司の作風に育てられ、益子の素材を活かしながら、人々の食卓を彩る道具として独自の多様性が宿ったようです。

 

作り手の個性が存分に発揮される、陶器の街・益子。

時代に合わせて、人々の生活が少しでも良くなるような使い手目線のものづくりをするつかもとさん。

 

もし時代が変わって、私たちの生活が変化しても、益子焼は私たちの生活に寄り添ってくれる存在であり続けるような気がします。

 

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